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新渡戸稲造の「武士道」は、日本の魂。大学の大先輩の言を、心で受け止めてみた

the soul of Japan

こんな記事

口伝を中心としていた「武士道」は、19世紀から20世紀にかけて活躍した知識人、新渡戸稲造氏によって初めてその枠組みを体系化され、1899年に書籍にまとめられ、出版されました。

西洋に「日本文化の魂」を説明するという意図で出版されたため、この書の原本は英語で執筆されました。本書に表された氏の類まれなる才と明確な意図は、当時のアメリカ大統領ルーズベルト氏の心を打ち、同大統領は、「Bushido」を絶賛したとされています。

この記事では、大学の大先輩である新渡戸稲造氏が残した「武士道」を紐解きながら、武士という階級が消滅した今日に、私たちがどう武士道と向き合い、教訓とするべきかについて私見を述べていきます。

書籍:「武士道」とは

良き書を読むということが、どれだけ人生にとって有益であるかをまざまざと思い知らせてくれる書の一つが、この「武士道」です。本論に入る前に、この武士道の著者である新渡戸稲造氏のことを、少しだけご紹介しましょう。

新渡戸稲造氏と本書

新渡戸稲造(1862-1933)は、日本の思想家、活動家であり、その名は同氏が熱き誇りを込めて執筆した「武士道」によって、世界にも響き渡ることとなりました。国際会議において、初めて人種差別撤廃を訴えた人物としても知られています。

現在の岩手県の名家にて生を受けた新渡戸氏。生家には、多くの西洋伝来の品々がおかれ、氏は幼年期から西洋文化に親しんで育ったようです。そして、新渡戸少年は、英語の可能性に興味を抱き、僅か13歳で上京して語学学校で英語を学びます。

新渡戸少年が英語で作成した作文がアメリカで展示されるなど、彼の語学の才は抜群なものがありました。言うまでもなく、その語学力は、後年の「武士道」執筆にも、大いに利するところがあったと言えるでしょう。

さて、北海道大学の前身である札幌農学校で学んだ彼は、内村鑑三氏などの著名な人物とも交友を得、その学識をさらに高めることになったようです。また、大学在学中にキリスト教の洗礼を受け、生涯その信仰から離れることはありませんでした。

今回ご紹介する書籍、「武士道」は同氏が38歳のとき、つまり1899年に出版されました。つい先日まで小さな極東の国に過ぎなかった日本という国に対する多くの誤解や不理解に対し、日本人の魂を説明しようと試みたのが同書なのです。そして、言うまでも、その試みは大いなる成功を見たということが出来るでしょう。

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本書「武士道」は、日本の人々を支える精神気質であった「武士道」という概念を、初めて体系的かつ俯瞰的な視線で捉え、その姿を客観的に説明しようとした意欲作です。

本書のはしがきにおいては、「宗教的な教育がない日本において、どのように道徳教育を行うのか」という質問を受けたことが、日本人の道徳としての「武士道」を説明しようとする本書の執筆動機であったとも語られています。

本論では、武士道の比較検討の題材として、海外著名人や作品の名が多く登場します。そうすることで、日本文化を客観視する意図は勿論ですが、「武士道」が海外の文化にも引けを取らないという自負心もあったのかもしれません。

武士道の考え方を説明するだけではなく、関連する様々なテーマについての新渡戸氏の考えが散りばめられているため、武士道の本質という主題のみならず、多くを得ることが出来る書籍だと言えるでしょう。

samurai 魂

「武士道」と私

幼年期から、戦国武将や三国志などで活躍する義士に心を寄せてきた私として、「武士道」を理解することは、私の琴線を覗き見ることです。また、いみじくも北海道大学で学んだ一人として、新渡戸氏の書に親しむことは、殆ど義務であると言えます。

さらに、これからの私は会社員という安定を捨て、独立した人生を歩む決意です。安心・安全を失った心は、自由の風のみならず、不安の風が吹き込むこともあるでしょう。ですから、自分の中に大きな光、拠り所が必要です。

その光を探す中で、「武士道」が候補に入ってこないとすれば、それは愚かなことです。そして、「武士道」は、私の予想にたがわず、道を照らしてくれる光の一つとなりました。私がこの書を読んで感じ、考えたことは、以下のようなことでした。

これら4つの要素が、本書の読書を通じて考えたことです。以下で、もう少し具体的に、どのようなことを考えたのかを説明していきます!

以下の内容は、同書を通じて私が感じたことです。つまり、以下の内容には、独自解釈が多分に含まれるため、必ずしも新渡戸氏が意図した内容と一致した解釈がなされているとは限りません

1. 「武士道」への理解

新渡戸氏が、日本のサムライたちを支えていた伝統的な精神を、体系的に纏め上げた初めての思想書が、この「武士道」です。新渡戸氏は、この書を著することによって、「武士道」が何たるかを極めて明快に示したと言えるでしょう。

「武士道」とは

本書において、新渡戸氏は、「仁」「智」「勇」が「武士道」の根幹をなす主柱であると述べています。簡単に言ってしまえば、「優しき心を持ち、思慮深く勇敢な者」こそが、武士道の体現者であるということです。

即ち、武士とは、「慎みと強い信念を持ち、平時はむやみに武を振るわず、有事とあらば義挙に身を捧げる勇者」を指すと言えます。実際、本書では、年齢、性別を問わず、このような武士道に殉じた勇者たちの逸話が散りばめられています。

それらの逸話は、現代の基準で見れば、悲しすぎる物語です。しかし同時に、登場人物の所作に気品を感じる部分があることも否定できません。義士から感じる「品格」こそが、「武士道」であると言えるかもしれません。

武士とは、困難においても道を曲げることなく、己の善なる性を持ってそれに立ち向かい、道半ばで倒れようとも悔いを残さない勇者です。本書で紹介されているそんな勇者の事例を、以下に紹介します。

物語のイメージ

例1 : 山中幸盛 ~武士道の体現者~

本書では、武士道を体現した勇者として、山中幸盛という戦国武将が紹介されています。山中幸盛は、「三本の矢」の逸話で有名な稀代の謀将、毛利元就によって滅ぼされてしまった尼子氏の再興を目指し、一身を顧みずに奮闘しました。

山中幸盛は、武勇に優れた忠義の士で、「我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったエピソードや、山中鹿之助という別名も有名です。困難に立ち向かった義士として大きな尊敬を集める戦国武将の一人です。

「武士道」新渡戸稲造(PHP文庫) P133より抜粋 (山中幸盛の句)

憂きことの なほこの上に 積もかれし 限りある身の 力ためさん

上記は、山中幸盛の尼子氏の再興に向けた決意を歌った歌で、苦境においても生き伸びて、主君への忠義に殉じようとする強い決意が見られます。幸盛は、この悲願を果たせず世を去るのですが、旧恩を忘れずに奮闘する姿は、真の武士の姿として後世の人の心を打ったのです。

山中幸盛のエピソードに登場する三日月のイメージ

例2 : 吉田松陰 ~武士道の体現者~

他にも、武士道を体現した人物として、吉田松陰が紹介されています。松陰は、僅か11歳の時に藩主の前で兵法談義をするなど秀才として知られ、自身の松下村塾では、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋などの明治維新を主導した指導者たちを育成しました。

「武士道」新渡戸稲造(PHP文庫) P175より抜粋 (吉田松陰の句)

かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂

日本国の改革を訴え、倒幕活動を行った吉田松陰。彼を突き動かしたのは、志とそれを貫く意志。そしてこの句は、たとえその道が険しくとも、志に殉じる覚悟があることを示しています。この姿勢が、「武士道」を体現したものとして紹介されているのです。

行動の人

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2. 「武士道」は、いたるところに

私は、この体系的かつ論理的に整理された「武士道」を読めば読むほど、「武士道」が表そうとする思想は、誤解を恐れずに言えば、必ずしも日本固有の精神ではないということを思い知らされることになりました。

もちろん、「武士道」そのものは、サムライを祖先とする思想であり、日本で生まれたものです。しかし、大枠としての「武士道」は、善良なる人間の行動を抽出した概念であり、そういった行動様式を日本では「武士道」と呼ぶということに過ぎません。

例えば、イギリスの小説「トム・ブラウンの学校生活」の主人公の「小さい子をいじめず、大きな子に背を向けなかった者、という名を後に残したい」というセリフが、高い道徳性を有するものとして、以下のような賞賛を受けています。この賞賛には、武士道と同類の精神性を見たという喜びが含まれていることでしょう。

「武士道」新渡戸稲造(PHP文庫) P23より抜粋 

この願いこそ道徳律の萌芽であり、すべての道徳の壮大な建造物が築かれる礎石といえるのである。

つまり、サムライが物理的に存在しなかったイギリスにおいてもサムライ気質は存在していると論じているわけです。言うまでもないことですが、サムライがいる・いないというのは、あくまで日本人的な目線に過ぎず、サムライの存在に関わらず、正道や道徳は当然存在するということです。

「武士道」は、人間の善良なる感情が複雑に絡み合った思想体系で、その構成要素に日本固有と断言できる物はありません。「武士道」は、人間の善を取り出した備忘録のような物であり、「武士道」があるからそこに善があるのではないのです。つまり、「正道あるところ、武士道あり」という訳です。

「武士道」を構成するものは普遍的な道徳観ですが、その配合は特殊。つまり、「武士道」は、複合的な思想体系として「日本固有の文化」なのです。ラフな言い方をするなら、配合するスパイスの量、種類によって名を変えるカレーのようなものでしょうか。

様々な要素からなる集合体のイメージ

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3.  日本人は皆、武士である

先において、「武士道」が持つ普遍性について触れましたが、だからと言って日本人が武士道の体現者であること、少なくともそうであったという事実は変わることがありません。だからこそ、私たちはこの精神性を慈しみ、重視していく必要があります。

では、「武士道」の生みの親を祖先に持つ私たちが、祖先からの期待に応えていくためにすべきことは何でしょうか?それは明らかに、「武士道」を正しく理解し、誇り高く、桜の花のように儚くも美しい精神性を実践していくことです。

この意味で、私たちは「武士道」を理解することだけでは、新渡戸氏の意図はもちろん、祖先からの期待に全く及びません。サムライたるもの「論語読みの論語知らず」であってはならないのです。サムライは、行動の人でなくてはなりません。

「武士道」新渡戸稲造(PHP文庫) P31より抜粋

知的専門家は、単なる機械だとみられた。要するに、知性は行動として表れる道徳的行為に従属するものと考えられたのである。

人の善の集合体である「武士道」の炎を心に灯せば、人生が豊かになるでしょう。そして、「武士道」を文化的祖先に持つ私たちは、それが比較的容易なはずです。そのアドバンテージを活かさないのは、とても勿体ないことだとは思いませんか?

本書では、「武士道」において女性が果たした役割についても議論されていますが、特に現代においては、「武士」であるために必要なのは志を有した行動であり、性別ではありません。

take an action!

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4. 「武士道」のこれから

過去の日本を形成した偉大なる精神気質としての「武士道」は、今も脈々と受け継がれているでしょうか?今の世の中に共通の言語として漂っている精神的気質は、「武士道」に類似するものだと言えるでしょうか?残念ながら、答えは「否」です。

現世を揺り動かしている考え方は、功利主義や合理主義です。これらの考え方から見て、「武士道」が時代遅れに見えることは事実です。そもそも、武士道においては利益を得るための行動というのは、軽蔑されるものだからです。

では、「武士道」には滅び去るしか残された道がないのでしょうか?もちろん、そんなことはありません。国民気質として受け継がれてきた精神性は、そう容易く消え去る物ではありません。私たちは、まだまだ「武士道」を取り戻すことができます。

そして、「武士道」を再び心に取り戻すことが、幸福を求めたいと考えている私たちに、求められていることであると言えます。何故なら、人間の本質として、善良に生きることは、狡猾に生きることを常に上回るからです。

そして、善良に生きるために心に光を灯す必要があるとすれば、「武士道」はその役目を十二分に果たしてくれるでしょう。

暖かい光

これからの「武士道」

現代を生きる私たちが時代に満足し、完全なる充足感を得ているのなら、武士道は過去の英雄として静かに埋葬されるべきかもしれません。しかし、今を生きる私たちに、今の社会や時流に心から満足している人がどれだけいるでしょうか?

そんな現代では、「武士道」の再興が達成できれば、間違いなく私たちの幸福度を高めてくれるでしょう。「武士道」という物は人の善なる面の集合体であり、その武士道を心に灯して生きることは、人間としての正道を生きることに他ならないからです。

先に述べたように、「正道あるところに武士道あり」。人間は、自然環境においては善であり、高尚な道徳規範など必要としません。しかし、文明社会という不自然なルールに従って生きる私たちには、道徳規範を持つことは、身を律し、自らの善なる本質を引き出していく助けになるでしょう。

ですから、自分の満足度を高めていくためには、道徳的な行動規範としての「武士道」を知り、その美徳と行動とを結びつける努力をすることで、自身の行動を変え、幸運を呼び込み、そして幸せを生み出していくことが出来るのではないでしょうか。

今の時代においても、武士であることは可能です。仁愛の心を持って人に接し、軽々には動かず、しかし、ここぞという時には大義に従って挑戦する姿が、現代のサムライだと言えるのではないでしょうか。

不屈の精神、フェニックス

さいごに

「武士道」によってもたらされるものの多くは、表面的には精神的な充実感に限定されるように見えるため、物的な満足度を追求する社会では忘れ去られてしまうかもしれません。しかし、今は「武士道」が埋葬される時期ではありません。

何故なら、今を生きる私たちは、物的にある程度満たされながらも欠落感を感じているからです。それは、私たちが今の合理主義の世の中で求められている生き方による部分が大きいと言えるでしょう。私たちの本質が求めているのは、物的な発展よりも、精神的な充足なのです。

人間の本質は善良であり、その輝かしい美徳は、仁を持たずに生きることを是とすることはできません。百歩譲って理性的には可能であるとしても、本能的には不可能です。だからこそ、私たちには「武士道」の光が必要なのです。

私たちが「武士道」に沿って生き、本当に理想的な社会を築いたとき。その時は、「武士道」と笑顔で別れるときでしょう。教義としての仮初の「武士道」は静かに天に上り、伝統的気質としての「武士道」が、再び日本人の心に産まれることでしょう。

「武士道」という崇高なる生き方を体現してきたサムライたち、そしてその志に殉じた多くの義士たちも、そんな日が来ることを待ち望んでいるのではないでしょうか?だからこそ、今の私たちは、「武士道」を学び、行動に移していくべきなのです。

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私たちが過去の遺物としている価値観の中には、現代においても私たちを良い方向に導いてくれるものもあります。何故なら、私たちの価値観を支配する時代の潮流は、必ずしも私たちを良い方向に導くものだとは限らないからです。そして、「武士道」は、注目するべき価値観の一つです。

サムライは、「武」だけを求めたのではありません。彼らは、「忠」、「勇」、「仁」、「義」など、人間として大切な感情をより重視し、究極的には「無刀」、即ち平和を追求した思想であると言えます。

この美しい思想の中には、普遍的な人間の善の姿が認められます。そして、それをどう解釈していくかは、貴方の考え方次第です。私は、この美しい精神性に敬意を持ち、それを祖先にするに恥じない生き方をしたいと感じました。

新渡戸氏の文章、論理展開はいずれも見事ですが、特に後段で展開される「桜」「武士道」を関連付けた議論は、美しく、それ自体が桜の精神性を体現していると感じます。この議論に感じる趣こそが、「武士道」であると言えるかもしれません。

日本という国に生を受けたありがたさを感じさせてくれる「武士道」は、日本人必読の書だと言えるでしょう。さあ、貴方はこの書を通じて、何を感じ、何を得るでしょうか?

エンゼルス大好き
すけまろ
myself
スピッツが大好きで10年来のファン。このブログは、そんな私によるスピッツのファンブログです。カラオケ大好き、スピッツの楽曲フルレビューにも挑戦中。歌手オーディションに3回合格。漫画、アニメ、読書も好き。スポーツ観戦がライフワーク。最近はエンゼルスに夢中で、ツイッターでは応援ツイートを垂れ流しています(笑)。貴方も、「LTBU」しませんか?
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