個性を磨きたいなら、徹底的に真似をしよう。有名なロジャー・ラブ氏のボイトレ本にもそんなことが書かれていました。
しかし、真似をすること=個性化とは限りません。他人のテクニックを追うことは、没個性化の作業という側面があるからです。。
貴方の声は、何もせずとも裸の個性があるはずなのです。模倣の追及が、没個性化の追求にならないように気をつけましょう。
結論
貴方の個性の中心にあるのは、あくまで貴方の独特な声であり、その声の魅力をあえて消すような表面的な真似は避けましょう。
個性は作る物ではなく、自然と現れる物。好きな曲を、小難しいことは考えず楽しく歌いましょう。その先に、個性が見えてくるはずです。
「真似」≠「個性を見つける」
オリジナリティを手に入れるために真似が必要というのは、よく言われることですが、真似することと個性を見つけることはイコールではないと考えています。
ピカソの言葉
「真似」というワードを考えるときに、よく引き合いに出される例があります。天才画家であるパブロ・ピカソも以下のように語ったと言われています。
【 ピカソの言葉 】
優れた芸術家は模倣し、偉大な芸術家は盗む
この言葉の解釈としては、模倣だけは偉大とは言えないが、模倣できることは優秀さを示すという意味だと考えて差し支えないでしょう。
しかし同時に、器用貧乏と言う言葉があるように、優秀な喉機構を持つ=魅力ある歌手という意味でもありません。
極端に言えば、叫ぶことしかできない発声機構でも、個性的と認められる可能性はあるわけです。芸術は、爆発だ、との至言もありますね。

模倣の昇華
この言葉の意図は、模倣することの重要性を強調するものではなく、天才のみが行える模倣の昇華を強調するものではないでしょうか?
そして、優秀どまりの人が行う模倣は、どこまで行っても模倣なのです。つまり、私たちは、模倣=二番煎じを目指す活動となるのではないでしょうか?
だからこそ、模倣は止めて、自分の心の赴くままに歌うべきです!
個性の芽
個性の根幹にあるべきは、貴方の声そのもの。従って、個性を出したいなら、貴方の声が最大限、自由に舞う方法を考える必要があります。
重要なのは、楽しむこと。その過程で自分の歌い方、個性が自然に生まれてきます。そして、その個性は貴方だけのものです。
声の個性は、貴方生まれ持った声そのものでテクニックではありません。貴方の声を大切にすれば、没個性のリスクを低減できます。

歌唱技術は、模倣OK
積極的に参考にするべきだと思うのは、アーティストの歌唱技術です。それぞれの歌手が持つ声を、どうやって開放しているかを学ぶことは重要です。
私の例で言うと、草野さんの伸びやかな高音、違和感ない喚声点処理などは、積極的に見習い、私の物として昇華したいと思っています。
この意味で、私は草野さんの技術を盗もうと、日々取り組んでいます。
感情表現法は、賛否
ここでの感情表現法とは、「ここは泣かせるポイントだから息漏れを多くしよう」などの方法を指しています。この分野における模倣の是非は、好みや目標によるでしょう。
ただ、私個人としては、感情表現の模倣は不要だと考えています。ボーカルトレーニングは貴方の声の可能性を狭める物だとすら感じています。
歌の中心にあるべきは個人の声の魅力であり、表現やテクニックであってほしくありません。だから、ただ思うままに歌えば良いと思います。
私は、スピッツの歌が大好きですが、草野さんの声色を真似したいと思った事はありません。私はあくまで、私の声で歌いたいのです。
感情表現の罠
感情表現に拘り過ぎた歌は、画一的になりがちです。感情表現を表面的に真似して作った個性は、「借り物の個性」かもしれません。
結果としての表現は歓迎されるべきものですが、表現のための表現は、魅力を引き出す要素になるのでしょうか?
特定の曲の「歌い方講座」。原曲通りに歌う練習という意味なら問題ありませんが、個性化の練習として行うとすれば、どうでしょうか?

さいごに
感情のない歌は価値が無いかもしれません。ただし、感情表現のためにテクニックに寄りかかっては、歌が持つ本来の魅力は失われてしまうでしょう。
【 フレデリック・フースラー著 うたうこと p144より引用 】
完全な歌手の歌うという行為は、間断のない創造的行為なのである。(中略) テクニックは「既成のもの」なのである。
大事なことは、歌唱とは創造的行為で、技術は創造的行為ではないということです。歌は、感情の自然発露によって行われることが中心であるべきです。
結果としての個性を探そう
歌唱行為の本質が創造的行為であるならば、その過程は楽しまれるべきものです。楽しくないことに、創造性があるとは思えないからです。
大好きなアーティストを見つけ、難しいことを考えすぎずに楽しく歌い続けることで、貴方だけの個性を手に入れていきましょう!